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ミュージカル『エリザベート』を10倍楽しむためのヨーロッパ史(第2回)

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MomentmalによるPixabayからの画像

オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリザベートの生涯を描いた、ウィーン発の人気ミュージカル『エリザベート』をもっと楽しめるように、物語の背景となる近世・近代ヨーロッパ史について解説します。

連載第2回となる今回は、18世紀のヨーロッパでおこった象徴的な出来事についてお話しします。

 

前回のおさらい

17世紀以前のヨーロッパでは『飢餓』『疫病』『戦争』の三大要因によって人口増加が抑制されてきました。

それが18世紀にはいり、人口減の一因でもあった『ペスト』が西ヨーロッパにおいて徐々に姿を消したり、穀物の収穫率が向上して食料事情がよくなったりして人口増加が始まります。

 

人口の増加にともなって経済が発展し始めるなかで、それまで一部の支配階級によって虐げられてきた庶民のあいだに、「労働や経済活動の自由、政治への参加や財産所有の権利などはすべての人に平等に与えられるべきである」という『啓蒙(けいもう)思想』が広がっていきます。

それは大きなうねりとなり、ヨーロッパ各国において歴史を動かす原動力となっていくのです。

 

(続)18世紀のヨーロッパで何がおこったか

3. 自由経済を発展させようとした各国の支配者たち(啓蒙専制政治)

啓蒙思想のなかで『経済的な自由を求める動き』は、庶民だけでなく各国の支配階級にも浸透していきます。

なぜなら、自国の国際的な地位を向上させるためには、戦争で領土を広げるだけでなく、経済的な発展がかかせないことに彼らは気づいていたからです。

国の支配層が主体となって自由経済を発展させようとした政治の動きを『啓蒙専制政治』といいます。

 

ところが、身分の階層構造が残ったままで啓蒙専制政治をうまく機能させることは大きな困難をともないました。

うまくいかない大きな理由は『既得権益(きとくけんえき)を守りたい』と考える貴族など一部の支配階級の反発でした。

 

既得権益とは、ある個人や社会集団が持ちつづけている権利や利益のことです。これを守りたいというのは古今東西をとわず人間がもつ強い欲求です。

現代日本の企業内においても、自分の地位を維持したいという欲求だけが強くなり、たいした仕事もしないのに会社にしがみつくいわゆる『働かないおじさん』がなんと多いことでしょう(笑)

 

近代ヨーロッパでは、王政主体で自由な経済活動をうながそうとしても、自分たちの権利や利益を失うことを恐れた貴族たちが反発して中途半端に終わる、ということがくりかえされました。

 

 

 

4. マリア・テレジアによる啓蒙専制政治

名門ハプスブルク家のオーストリアでは、18世紀中ごろからマリア・テレジア(在位1740~1780年)による啓蒙専制政治がおこなわれます。

このマリア・テレジアは、『エリザベート』の登場人物であるフランツ・ヨーゼフ1世の高祖母(こうそぼ)にあたります。つまり「ひいひいおばあちゃん」ですね。

 

マリア・テレジアは父親から『神聖ローマ皇帝位』を継ぐように指名されたのですが、「女性が皇帝位を継ぐなんてありえないよ」と周辺国の反発を受けました(オーストリア継承戦争)。

結果、マリア・テレジアはハプスブルク家の当主は継ぐものの、神聖ローマ皇帝位は夫のフランツ・シュテファン1世(在位1745~1765年)に譲りました。

 

なお、当時のオーストリアは『プロイセン』という国と対抗関係にありました。プロイセンをけん制するため、ながらく対立関係にあったフランスとの連携を強くしようとして娘のマリー・アントワネットをのちのルイ16世に嫁がせたのもマリア・テレジアです(外交革命)。

 

フランツ・シュテファン1世の死後、息子のヨーゼフ2世(在位1765~1790年)は、啓蒙専制をさらに積極的に進めていきます。

しかしここでも貴族たちの抵抗力は強く、改革はうまく機能しませんでした。そしてその流れのまま、名門ハプスブルク家は19世紀の厳しい情勢に巻き込まれていくことになります。

 

(補足)18世紀のヨーロッパ地図

それではここで、現在(2019年)とオーストリア継承戦争が始まった1740年のヨーロッパ地図を比べてみましょう。

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2019年のヨーロッパ地図

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1740年(オーストリア継承戦争が始まった年)のヨーロッパ地図

地図上の水色のところがオーストリアです。現在のオーストリアと比べて、1740年当時はものすごく大きい国土を持っていたことがわかります。

現在の地図でいうとハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、ルーマニアなどの国々を含んだ領域にあたります。

 

また、現在のドイツの位置に相当する場所にあったのが『神聖ローマ帝国』です。この国は代々ハプスブルク家が当主を勤めてきました。

オーストリアと神聖ローマ帝国を含めると、なんとも広大な領域を治めていたことに驚きます。

さすが、600年の歴史をもつ名門ハプスブルク家ですね!

 

なお、先ほども紹介したプロイセンはオーストリアの北部(現在のベルリン周辺)に位置しており、ハプスブルク家の対抗勢力として台頭してきます。

このプロイセンの存在がオーストリアとハプスブルク家の運命を大きく左右していくことになります。

 

5. 啓蒙思想がもたらした変革の波『フランス革命』

18世紀のヨーロッパで広がった自由と平等を求める啓蒙思想。その流れをもっとも象徴するといわれるのが『フランス革命』です。

 

1789年の7月、パリ市内の東はずれにあったバスティーユ要塞が、武装した市民よって襲撃されるという事件がおこりました。

それを合図としてフランス革命が始まり、最終的にはルイ16世は処刑され王政は廃止されます。

ハプスブルク家の血を引くあのマリー・アントワネットも処刑されてしまいます。

 

18世紀後半のフランスではさまざまな社会経済的な危機に直面していました。

農業不作による食糧危機や、ただでさえ深刻だった国庫赤字の蓄積に「アメリカ独立支援」が追い打ちをかけた財政危機です。

また、王政が改革を進めようとしても中途半端に終わり、近代化や自由化を徹底できない状況も続きます。

このような啓蒙専制の限界が、さらなる政治的な不安定と危機的状態を招きました。

 

さまざまな政治や社会的状況、階級や立場がことなる人々の不満や反発が複雑に絡みながら進んだフランス革命ですが、その根底にあったのは個人の自由や権利を求める啓蒙思想であったといえます。

 

なお、個人の自由や権利といっても現在とはことなり、政治への参加権などは女性には認められていませんでした。

フランス革命は最終的に、ナポレオンによる独裁的な帝国形成につながっていきます。

 

まとめ

前回から2回にわたって、18世紀のヨーロッパでおこった出来事について解説してきました。

中世から続いてきた古い考えや体制を否定し、より人間らしく生きるための自由と平等を求める運動が、18世紀のヨーロッパを大きく変容させました。

その象徴といえる出来事がフランス革命であり、そこから19世紀のさらなるヨーロッパの激動につながっていきます。

 

『エリザベート』の舞台となるオーストリアのハプスブルク家も、王政主体の改革を進めようとするものの、時代の急激な変化に翻弄されてその支配力や影響力を弱めていきます。

 

次回はいよいよ、エリザベートが生きた19世紀のヨーロッパについて解説していきます。

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

【参考文献】

・福井憲彦『近代ヨーロッパ史 世界を変えた一九世紀』筑摩書房

・小池修一郎『エリザベート 愛と死の輪舞』角川文庫

World History Maps & Timelines | GeaCron

 

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