ミュージカル『エリザベート』を10倍楽しむためのヨーロッパ史(第3回)
オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリザベートの生涯を描いた、ウィーン発の人気ミュージカル『エリザベート』をもっと楽しめるように、物語の背景となる近世・近代ヨーロッパ史について解説します。
連載第3回となる今回は、いよいよエリザベートが生きた19世紀のヨーロッパ史についてお話しします。
前回までのおさらい
18世紀のヨーロッパでは、個人の自由や平等をもとめる啓蒙(けいもう)思想が広がりました。
啓蒙思想は古い体制に反発する民衆の運動へとつながり、その象徴的な出来事として『フランス革命』がおこります。
また、ヨーロッパ各国の支配層は自国をより豊かにするために、自由経済を発展させようとします(啓蒙専制政治)。
『エリザベート』の舞台となるオーストリアの名門ハプスブルク家でも、マリア・テレジアやその息子を中心に啓蒙専制政治がおこなわれました。
しかし、改革は思うように進まず、国内外に多くの問題を抱えたまま次の19世紀をむかえます。
19世紀のヨーロッパで何がおこったか
1. ナポレオンの失墜と『ウィーン会議』
18世紀末の1789年に始まったフランス革命のあと、19世紀初頭から『ナポレオン』による独裁政治が始まります。
ナポレオンは「市民的自由の戦士として戦うのだ」という口実のもとにヨーロッパ全体に支配を広げていこうとします。
しかし、占領軍としてのフランスへの反発は各地で強まり、ナポレオンは最終的に負けて1815年に流刑となります。
ナポレオンが失脚したあと、フランス革命以来の混乱したヨーロッパ情勢をたてなおすため、諸国の代表がオーストリアのウィーンに集まって会議をおこないました。
これが1814年から1815年にかけて開催された『ウィーン会議』です。
各国の領土をどのように分けるかは難しい問題でした。
それでも、「お金や人命を消耗するだけの戦争はやめて、国内を安定させたり経済力を蓄えたいよね」とみんなが考えた結果、最後には合意することができました。
このウィーン会議で調整役として活躍したのはオーストリアの外相『メッテルニヒ』です。
18世紀までハプスブルク家が当主を勤め続けてきた『神聖ローマ帝国』は、1806年に解体されてバラバラになっていました。
ウィーン会議のとき、それらの大部分を含む国や都市が同盟した『ドイツ連邦』が形成され、そのリーダー国はオーストリアがつとめることになりました。
メッテルニヒのがんばりで、オーストリアは広大な領地をなんとか保つことができたのです。
※1815年地図の青い線で区切られた内側領域がドイツ連邦。
2. 怒れる民衆による『48年諸革命』
ウィーン体制の指導者たちが考えた社会秩序は、あくまで国王や皇帝を頂点とする階層秩序でした。
しかし、当時のヨーロッパでは政治への参加権や自立を求める民衆運動はすでに大きく浸透していたため、ウィーン体制がこれを抑えこむことは不可能でした。
ウィーン会議後のしばらくは戦争がない期間が続いたものの、やがてヨーロッパ各地で武装した民衆による運動が広がっていくことになります。
そして1848年になると、各地の都市で同時多発的に革命がはじまります。
パリの『2月革命』に続いてウィーンでは『3月革命』が生じ、そのほかにもローマやベルリンなど各地で革命的な状態となりました。
ウィーンでは3月革命によって外相メッテルニヒが国外に追放されてしまいます。
その後もしばらく混とんとした情勢が続くものの、1848年の12月には軍隊が革命軍を制圧し、いったん革命は終息しました。
そのとき、混乱した国内情勢を立て直すために18歳の若さでオーストリア皇帝として即位したのが、『エリザベート』にも出てくるフランツ・ヨーゼフ1世です。
ようやくわれらが『フランツ・ヨーゼフ』の登場です。ここまでたいへん長らくお待たせしました、、、
わたしが18世紀から19世紀半ばまでのヨーロッパ情勢をこれまで詳細に説明してきたのも、当時のフランツが抱えていた問題や苦悩を、より理解していただきたいためです。
現代の政治家が「国民の皆さまのために命がけでとりくみます」と宣言したところで、たんなる比喩表現でしかありません。
しかし、当時の支配者は政策が失敗したら国民の反感をかって最悪は処刑されてしまうこともあるし、いつ他国が攻め込んでくるかもわかりません。
文字どおり『命がけ』で政治にとりくまなければならなかったのです。
そして、皇帝フランツが抱える問題や苦悩の大きさは、その伴侶である皇后エリザベートも同様に背負わざるをえませんでした。
バイエルンの豊かな自然に囲まれて奔放に育ち、馬に乗って駆け回ることが大好きだったエリザベート。
そんな自由を愛する彼女にとって、名家の伝統と格式にしばられた宮廷生活や、オーストリアの未来を一身にせおう皇帝の妻としての立場は、どれほど辛く苦しいものだったでしょう。
3. オーストリアの立場を弱めた『クリミア戦争』
18歳で即位したフランツ1世のもとには、国内外でのさまざまな問題が山となっておし寄せてきます。
外交面で就任早々に問題となったのが『エリザベート』のセリフ中にも登場する『クリミア戦争』です。
クリミア戦争とは領地拡大を狙うロシアと、侵略される側にある『オスマン帝国』との戦争であり、1853年から1856年にかけておこりました。
オスマン帝国は現在のトルコを中心とした地域です。
ロシアの進出を恐れるイギリス・フランス連合はオスマン帝国を支援するため援軍をおくって戦争に加わります。
ちなみに、『ナイチンゲール』が看護婦として従軍しイギリス軍の負傷兵の死亡率をおおきく下げたのは、このクリミア戦争です。
1820年生まれのナイチンゲールはエリザベートより17歳年上で、クリミア戦争開始時は33歳でした。
国も立場も違う二人の女性が関わることはなかったと思いますが、同じ時代のヨーロッパで生きていたんですね。
さて、当時のヨーロッパ地図をみると、オーストリアは各国にはさまれた絶妙の位置にあることがわかります。
とうぜん各国は、オーストリアを味方に引き入れるべく大使をおくって交渉してきます。
しかしオーストリアは明確な立場をとりませんでした。それが各国の反感をまねき、オーストリアの国際的な立場をかえって弱くしてしまいます。
『エリザベート』での皇太后ゾフィーのセリフが印象的でした。
「オーストリア帝国の皇帝は、なにもする必要はありません」
「戦争はほかの国々にまかせておきましょう。幸運なオーストリアは、結婚で平和をたもつのです」
ところでクリミア戦争の期間中、プロイセンはこの戦争に介入しないほうがよいと親切げにオーストリアに忠告してきました。
しかし、プロイセンのほんとうの狙いはオーストリアを孤立させて影響力を弱めさせ、ドイツのリーダーを横取りすることでした。
プロイセンの策略により、ハプスブルク家は19世紀後半にかけてますます追い込まれていくことになります。
まとめ
連載三回にわたり、18世紀から19世紀半ばまでのヨーロッパ史についてご紹介してきました。
もう一度、全体を簡単にまとめてみたいと思います。
- 18世紀は人口増加により経済が発展し、自由と平等を求める啓蒙思想が広がった。
- 従来の体制に対する反発が強くなり、その象徴として『フランス革命』がおこった。
- 『ウィーン会議』をきっかけに各国とも国内秩序を整えようとしたが、従来の体制を維持しようとしたので民衆の反感を買い、革命が乱発した。
- オーストリアのハプスブルク家は、国内外の多くの問題にうまく対処できず、徐々に国際的な影響力を弱めていった。
私自身、ヨーロッパ史についてほとんど何も知らない状態から、エリザベートやフランツが生きた時代の背景や、地図上での各国の位置関係を知ることで、ミュージカル『エリザベート』をさらに楽しめるようになったと実感しています。
すでに『エリザベート』ファンの方、これから見る機会がある方の参考になれば幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
【参考文献】
・福井憲彦『近代ヨーロッパ史 世界を変えた一九世紀』筑摩書房
・小池修一郎『エリザベート 愛と死の輪舞』角川文庫
・江村洋『フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝』
・World History Maps & Timelines | GeaCron